[世外奇人]君の文章によせて

[世外奇人]君の以下の記事を読んでのコメントです。



※はじめ[世外奇人]君のことは本名で書いていたが、ブログで本名を出していないことに気づいてすべて置き換えた。



 [世外奇人]君の文章の美徳は、なんと言ってもその分かりやすさにある。しかもこのことは彼の思想を理解するうえで最も本質的なことだと思われる。彼の文章が分かりやすいことは、彼の思想からの直接の帰結なのだ。これを見て特に我々、人文学の入り口に立っている者は猛省せねばなるまい。はたして我々は、自らの思想と自らの文体とを明瞭に一致せしめえているだろうか? いたずらに複雑な修辞に手足を取られ、あたかもそれを一所懸命に乗りこなすことが自分自身の思想を最もよく表現することなのだと、錯覚していないだろうか? 文体は洪水のように押し寄せる。うっかりしていると、自分が流されていることにさえ気づかない。そんなことでは、自分自身の表現と思ったものも、結局偶然の泡沫に過ぎないものになる。

 それゆえ、[世外奇人]君の思想=文体を、僕はひとつのアイデアとして称賛したい。けれども忘れてならないのは、それがあくまで「ひとつの」アイデアに過ぎないということだ。彼の完璧なアイデアに一筋の罅を入れたのは、おそらくその点に無自覚であるということだろう。あるいは別の言い方をすれば、他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定してしまったのだ。このことは彼の文章のなかに、具体的に指摘することができる。

 話を手っ取り早くするために、まず僕が「[世外奇人]君の思想=文体」とか「ひとつのアイデア」とか読んでいるものを明らかにしておこう。それは(未だ十分に表しえていないと思うが)ひとまず以下のように定式化される。

  1. およそ文章は、なんらかの内容あるいはアイデアを伝えようとしている。
  2. その内容あるいはアイデアは、書き手の意図したものである(書き手がそれをどれほど完璧に意識し得ているか、という違いはあるにしても。つまり、書き手は自分でも不十分にしか理解していないが何となく抱いている理念を書き表そうとしている、という場合もあるが、それは書き手の言葉が不十分だった場合と同様に、表したかった内容やアイデアを分かりづらくしてしまう一種の欠損として扱うことができる)。
  3. それらの内容あるいはアイデアは、同じレベルに並べられるものである。
  4. 文章を読むとは、以上(1)~(3)に規定されるような内容あるいはアイデアを読み取り、理解することである。

 [世外奇人]君がこうした思想を持っているだろう、とは彼の文章の全体から読み取ったことであるが、端的には一つ目の段落によく表れている。とはいえ、以上のことは[世外奇人]君自身が明示的に書いていることではない。一つ目の段落に書かれているのはあくまで文章の文字列そのものと書き手の意図した内容との乖離、不可避のズレということであり、読み手はその「表現したかった真の内容」の方を理解せねばならない、という主張である。この主張自体は上で(4)として示したのだが、この主張が成り立つためには(1)、(2)のことが前提されていなければならない。

 (1)、(2)として書いたことは分かりやすい。そしてこの点について、いろいろ言いたいことは生ずるだろう。しかしこれだけならば、批判する必要はない。実際、一定の留保をつければこの項目はまったくの真理を述べている。読解しようとする意識を持った者にとっては、文章に限らず、およそ表現には意図がなければなるまい。読解の目標を「作者の意図」の解読に帰着させる態度はしばしば批判されるが、それはあくまで「意図」ということで、なにか作者の人格を心理的、社会的、あるいは何にせよひとつの地平に落とし込み、その働きのことを示そうとする限りのことである。確かにそのような読解は狭量であり、それ以上に「作者の意図」というものに不用意に信を置いている。だが広い意味での「意図」はやはり前提せねばなるまい。意図がないとすれば、いったい何処へ向かって読解すればいいというのか。そしてその意図に照らして、我々は表現の巧拙を評することができるのである。(読解でなければ、意図を前提する必要がない場合もある。たとえば文章をコラージュの素材として用いるとか、どの漢字が多く使われているかといった統計的データを得る(そして解釈を加えない)とかいう場合である。)

 問題は(3)にある。(1)、(2)がそれ自体では正しいとしても、この項目あるがゆえにおそらく僕は、[世外奇人]君の文章に違和感を覚えざるを得ないのである。つまり問題は、「内容あるいはアイデア」というものが何なのか、ということに存するのである。(3)の項目は、僕が「広い意味での意図」と言ったものを狭めることになっている。僕が批判したいのは要するにこの点である。書き手が意図し、従って文章において表されるべきものとは、ひとつの平面上に並べうるものではない。

 このことは慣れている人には自明のことなのだが、分かりづらいし実際表現するのは難しいから、努めて明らかに書こうと思う。比喩に頼ることを寛恕されたい。つまり「意図」(この語を僕は「内容あるいはアイデア」に対抗する概念として使うことにする)とは、単なる色の違いのようなものではないのだ。色の違いであれば、実際に同じカテゴリーのなかでの性質の偏りとして区別することができる。数値化することもできる。だが「意図」は、それをどのように表すか、あるいは「どのように読ませるか」ということと一体になっている。色の違いを区別し判断することが妥当性を持ちうるのは、あくまで色の違いに意義を認める限りのことである。しかし「意図」はまさに、読者の読み方そのものに影響を及ぼそうとしているのだ。絵画の新しいジャンルを創設することは、従来知られていた見方のなかで高い評価を得たり、あるいは新奇性を認めてもらったりすることを目指しているのではなく、まったく違う見方を提唱しているのだ。僕が(3)の思想を批判するのは、そういう意味である。つまり、[世外奇人]君はおよそどんな文章にも「彼〔=著者〕が表現したかった真の内容」が発見されうると考えており(1, 2)、それを読み取ることが読者の課題だとしている(4)のだが、そんなに単純なことではないのであって、およそ文章には「どう読むか」という問題が付きまとっている。それは読者の恣意ではなくて、書き手の「意図」が要請するものに含まれているゆえ、読解にとって必然的な問題である。ひとつの文章が要請する読み方が、他の文章に適用できるとは限らない。そういう意味で僕は、「同じレベルに並べられる」という考えを批判するのである。



 その意味では、[世外奇人]君が「文章は歴史無しに理解は出来ない」と言っているのは興味深い。この点には全面的に賛成する。著者の問題意識を共有する必要があるというのは、まったくもってその通りである。その先が惜しいと感ずる。どう惜しいと感ずるのか、実は単純な話なのだが、丁寧に述べると複雑に見えてしまうからあらかじめ要約しておくと、「歴史にまで考えが至ったのなら、なぜもう少し踏み込めなかったのか!」ということである。

 「文章は歴史無しには理解は出来ない」と言った次の段落で彼は、「一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり」、ビジネス書や自己啓発本の著者の「多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである」と書いている。この観察は正しいと思うのだが、ここに同時に表れているのがまさに、ある文章あるいは思想の内容を、同一のレベルに並べることのできる諸要素と見なすような思想である。

 くどくなって悪いが、僕は[世外奇人]君の観察は正しいと思っている。多くの「一見軽薄に見える」本には、確かに哲学的な思想が基盤を与えている。ところが問題は、「一見軽薄に見える」本がそのことをどれだけ明瞭に意識できているか、ということである。多くの場合「一見軽薄に見える」本が拠りどころとするのは、その時代に主流な考え方であり、暗黙のうちに我々の思考様式を領しているような考え方である。例えば現代のビジネス書は大抵、科学的な合理主義になんとなく基づいているだろうし、そういう本を参考書として引いてくるだろう。アニミズムに基づいたビジネス書は、きっとあまり多くない(実はそういうアニミズム的な考え方はうっすらと漂っていて、適当に合理的な言葉遣いを用いながら無意識に乗っかってしまっているのではないかとも思うけれども)。要するに、「一見軽薄に見える」本に基盤を与えている哲学的な思想というのは、その著者が(ほとんどの場合無批判に)受け入れている、当代の支配的な意識であるというに過ぎない。あるいは多くの参考書を明記しているとしても、それらが引かれている根拠はやはり、当代の支配的な意識に従って理解された自分の経験に合致するとか、当代に多くの支持を得ているとかだろう。だから「一見軽薄に見える」本は、自分がどのような必然性によって様々な思想に依拠しているかということを明瞭に意識できていないという点で、実際「軽薄」なのである。

 もちろん[世外奇人]君の言うように、「源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である」。これも正しいと思う。けれども、そうして遡行して「源流」を明らかにすることが何に繋がるかといえば、それは哲学的な思想そのものの理解ではなくて、「この「一見軽薄に見える」本の著者は、どういう思想を前提しているのだろう」ということである。だからそのような遡行は、著者を批判するために有効であり、またその時代に支配的な思想がどういうものであるかを明らかにするために有効なのであって、哲学そのものを理解することとはあまり関係がない。ここまで来れば、僕が「惜しい」と言った、その先へすぐに達するはずである。

 およそ文章を理解するためには、歴史を理解する必要がある。なぜなら書き手の問題意識は歴史に規定されているからである。そして書き手の問題意識を理解することはまさに、書き手の「意図」を理解することに繋がる。つまり、どのような読み方を想定(あるいは要請)したか、ということを理解することに繋がる。従ってそこで理解さるべきは、単に書き手の言わんとした「内容」なのではなく、それがどのように読まれるか、ということを含むのである。

 ここで、哲学書に関する独特の問題を指摘することができる。[世外奇人]君は「著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ」と言うのだが(このアイデアも悪くはないと思うが、やはり文章の表しているものは何らかの「内容」である、という考えに縛られている)、そうすると源流にあたる哲学書はどうなるのだろうか。ひとつの回答は、哲学書は何らかのアイデアを表現している、というものだろう。その見方に従えば、哲学とは何よりもアイデアを創生するものであって、そこから人々がそのアイデアを受け取ることができるものだ、ということになる。ところがそうすると、ある哲学書が過去の哲学書を批判するといったことはどう理解できるのだろうか。互いに異なるアイデアであり、単なる思想の原型ならば、自らの正当性を主張するということはできないはずである。あるいはまた、「もう時代は変わったのだ、現代により適した思想を提供してやろうじゃないか」ということでもないはずだ。要するに、哲学書が単にアイデアを表明しているだけならば、それは正当性を主張することができなくなってしまうだろう。ひとつの命題を述べた後でひとこと「これは正しい」と付け加えるのだとしても、その命題と正しさの主張とがどう一貫しているのかということは明らかにされうるのでなければならない。つまり哲学書は、それが自らの正当性を主張するものであるかぎり、何らかの「読み方」を要請せねばならないのだ。そういう「見地」を理解してはじめて、哲学書を理解したということが言いうる。だから、哲学書を理解することはひとつの「世界の読み方」を理解することでなければならず、従ってひとつの完全な知でなければならないのだが、そこから人々がアイデアを取り出すときにはそんなことにはおかまいなしに、断片化された「アイデア」として享受するのである。哲学書は固有のレベルを設定するのだが、人々は多くのアイデアをひとつのレベルにおいて取り扱うばかりになる。

 この問題と「歴史」の問題がどう関連しているかを明確にしようとすると大変であり、かつ自分自身うまく語れる自信がないのでごく簡単に(もごもごと)述べておくと、「哲学書は自分自身の置かれている歴史における(自分自身の)問題意識を、それまでの問題意識を理解するための状況と見なし、その問題意識に解決を与えることによってひとつの完全な読解のレベルを提供する」というようなことになると思う。ちなみにもちろん、ここまで僕が「哲学書」と呼んできたものは極めて理念的な意味を負わされている。



 これでおおよそ、[世外奇人]君の思想に対する指摘は済んだ。まだ少しだけ考察を加えたいと思う。

 第二段落を読むと分かる通り、[世外奇人]君が「文章」といったときに想定するモデルが、おそらく彼の思想を形成しており、僕との懸隔を生じさせている。たしかに経済学においては、それが論文であろうと単行本であろうと、文章が表すのはひとつの内容、アイデアであろう。そうでなかったとすればそれはただの詭弁ということになる。しかし僕の感覚からすれば、そういう「内容」を伝えることが目的であるような文章は、ひとつのタイプに過ぎない。だから、問題意識を理解することは単に「内容」を理解するための手段というには留まらず、「作者が何をしたかったのか」を理解することなのだと考える。

 はじめに「彼の文章が分かりやすいことは、彼の思想からの直接の帰結なのだ」と言ったことが、もう十分すぎるほどはっきり理解していただけるだろう。[世外奇人]君が文章を書くのは、自らの意図するアイデア、内容を伝えるためである。これは彼の思想なのだ。繰り返しておくが、これは称賛すべきことである。どこから得たか分からない文体に踊らされるほど悲惨なことはないし、逆に文体をついに得ないことは極めて寂しい。その点彼の文章は、自由闊達である。

 ではなぜ僕は横槍を入れるのか。一般的な側面を言えば、それは彼の文章がきわめて分かりやすく、従って僕の意欲を刺戟したからである。特殊的な側面を言えば、それは友人だからである。どうでもいい人間の文章にいちいちこんなものは書かない。要するに僕は、彼に視野を広げてほしいと思ったのだ。こんな不遜なことを、どうでもいい人間には言えない。彼の思想はひとつ「あり」だと思うが、もしこれを普遍化するならば、文章を読むことにおいて齟齬が生じる。ひとつ僕がなにか貢献できないだろうか、と傲慢にも思ったわけである。

 もっとも、上にも書いたように、彼の考えはすこし進めれば(僕の考えとは違う方向へ行くかもしれないが)ひとつの展開を見せるのではないか、という気がした。ますますお節介であったかもしれない。そういう意味では、彼の思想は固定的であるようにも見えたのだが、彼が思考を進めるという点において、万全のものであったのかもしれない。明瞭でない思考は進むことなどできないのだから。

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